「その8 戦争の記憶を訪ねる旅」から続く。
日本人墓地公園
「Former Ford Factory」から西に車を走らせ、広い幹線道路から住宅街の細い道に入って到着したのが、「シンガポール日本人墓地公園」。
1888(明治21)年にシンガポールで娼館主・雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林を日本人共有墓地のためにと提供したことに端を発し、1891(明治24)年に開設されたこの墓地には、からゆきさん、戦前に活躍した日本人、戦犯処刑者など、明治から昭和にかけてシンガポールで亡くなったたくさんの日本人が眠っています。
その二木多賀治郎の墓。
長野県出身の元船員で、1888(明治21)年に渡星。娼館、雑貨商、ゴム園の経営で財をなし、初期の日本人街のまとめ役となった人物。
日本人の相互扶助を目的とした「共済会」を発足させ、それが現在も続く「日本人会」の礎となっており、この墓地は、今も「シンガポール日本人会」が毎年慰霊祭を行っているのだとか。
墓碑ではなく、小さな石柱だけが並ぶのが、からゆきさんの墓。
からゆきさんについては、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』や森崎和江著『からゆきさん』に詳しいのですが、貧困故に身売りされて娼館で働いていた女性達が、故郷に帰る夢を果たせぬまま異国の地で亡くなった無念が眠っています。
この墓地にからゆきさんの墓が多いのは、開設者の二木多賀治郎が娼館を経営していたことと無縁ではないのでしょう。
からゆきさんの墓が並ぶエリアの近くにあった、明治時代のロシア文学家、翻訳家、小説家であった二葉亭四迷の碑。
傍らの説明板に、「この石碑は墓ではない。」と書かれていました。
1909(明治42)年、朝日新聞特派員として赴任していたロシア・ペテルブルグで重い感冒を患い、帰国するために乗っていた日本郵船の「加茂丸」の船中にてインド洋上で5月10日に客死。
「加茂丸」は5月13日にシンガポールに入港し、四迷の遺体は埠頭近くのパシルパンジャンという小山で荼毘に付されました。遺骨は日本の遺族の元に届けられましたが、終焉の地ということで、この日本人墓地に碑が置かれることになったとのこと。
こちらは、昭和初期に「マレーの虎」と呼ばれた谷豊(たにゆたか)の顕彰碑。
福岡県出身で2歳の時に一家でイギリス領マレーに移住。満州事変の勃発に怒った華僑暴徒に異母妹が惨殺された事を機にマレーの友人達と華僑を主に襲う盗賊団を組織、「ハリマオ」として知られるようになりました。
マレー半島を転々としながら活動し、太平洋戦争が始まると日本軍に協力して諜報活動に従事しましたが、マラリアに罹患し、1942(昭和17)年3月に30歳の若さで死亡。
没後に埋葬されたと伝えられる墓地は現存せず、ここには顕彰碑があるのみです。
1960(昭和35)年に作製されたテレビドラマ『怪傑ハリマオ』のモデルとなったことで有名なのですが、最近では知らない人の方が多いのでしょうね。
この他にも、有名、無名を問わずたくさんの墓標が並んでいました。
シンガポールの歴史の中でそれぞれに人生を歩んだ人々が眠る墓地、なかなかに感慨深いものがありました。
328 Katong Laksa
日本人墓地公園に続いて、昼食はシンガポールの国民的麺料理「ラクサ」を食べるために、石田君がKATONG(カトン)地区にある「328 Katong Laksa」へ連れてきてくれました。
カトンは、中国、マレー、ヨーロッパの文化をミックスさせた独特の「プラナカン文化」が色濃く残る場所で、ラクサの発祥の地とも言われています。
店の奥にあるカウンターの上に掲げられたメニュー板を見ると、ラクサがメインで、サイドオーダーがちょこちょこ。
オーダーしたのは、ラクサのSmall(S$5.5)とオタ(S$1.40)。
オタ(Otak)は、魚のすり身にタピオカ澱粉とスパイスを混ぜて、バナナの皮に包んで焼き上げた料理で、主にインドネシア、マレーシア、シンガポールで食べられています。
ラクサの方は、海老と貝のこくのあるスープに唐辛子の辛み、をれをココナッツミルクの甘さとまろやかさが包み込む、調和の取れた味。
辛さはマイルドで、チリソースが別袋で付いてきましたが、噂に寄ればこれが超激辛とか。使わずに持ち帰ったので、いずれ何かの料理に使ってみようかと思います。
麺は、中太の米粉麺が短く切ってあって、箸ではなくレンゲで食べるようになっていました。カトンのラクサは、短い麺が特徴のようです。
ラクサ自体は宮崎でも食べたことがあるのですが、本場の味はこれが初めて。なかなかに美味しくて、さすがにシンガポールを代表する麺料理だけのことはあります。